新科学
1537年
ニコロ・タルターリア(1499-1557)
 幼時にフランス兵に口をなぐられたのがもとで、うまく喋べれなくなり、そのため「タルターリャ・吃る人」という呼び名でよく知られているニコロ・フォンタナは、ルネッサンスの優れた工学者、測量技師、数学者でした。本書は、砲術、測量術、軍事防衛の為の築域術等を収めたフォンタナの最初の著作です。  当時、大砲の構造は大きく改良され、ドイツでは、より強力な威力を持った火薬が開発されていました。その結果、大砲の射程は大巾に伸びたけれども、照準を定めることはより困難になったのです。それで、タルターリャは最大射程と正確な照準を共に得るために、弾道学の分野を研究しましたが、その研究過程で、彼はアリストテレスの運動理論を批判することになったのです。
 アリストテレスの理論は、中世の終り頃には既にフィロボノス(紀元 530年頃) の「運動量・インペトウス」の理論によって修正を加えられており、このインペトウス理論はパリの唯名論者(ノミナリスト)達によって更に精密なものへと磨きがかけられていました。この理論によれば、砲弾は発射されると同時に「勢い・インペトウス」を与えられ、それによってまっすぐで平らな、つまり水平弾道を保ち、それから内在する「インペトウス」が徐々に使い尽くされていくに従って下降曲線を描き落下していくことになります。それに反して、タルターリャは、弾道は砲弾の自重によりつねに下方に曲げられていることを発見しました。そうして、更に45度の大砲の仰角で最大射程を得ることを立証しました。彼はこの砲弾の軌跡を矛盾なく説明できる数学理論を打ち立てようと意図しましたが、それは失敗に帰したのです。砲弾の動力学の原理を確立し、この事から弾道学の数学理論を引き出したのはガリレオでしたが、タルターリャは動力学の領域への大きな一歩を進め、更にまた砲手用の象限儀、遠く離れた地点の高さ、またそこまでの距離を測る測距儀、測高器等の装置を考察して砲術の実践の向上に貢献したのです。つまり、彼は現在でいうスタジア(視距)測量法を創始したのでした。
 彼は、また、三次方程式 x3+ax=bの解法の創始者として有名ですが、その数学の業績を秘密にし公表しようとしませんでした。ジロラモ・カルダーノは、1539年にこれの解法に関する情報をタルターリャから引き出すことに成功し、1545年に、タルターリャに先立って、主著「代数法則に関する大技術」(*15) でより一般的な解法を発表しました。当然のことながら、両者の間に優先権をめぐっての有名な論争が起こり、10年余りにわたって争われたのです。そのことを考えると、なぜタルターリャが1545年まで自分の解法を公表しなかったのかふしぎです。
 今日では、三次方程式の解法は、皮肉なことに、「カルダーノの法則」として知られているのです。